twitterなんかをみていると時間の無駄だなぁとぼんやりと思う。
何かしらの情報と新しい知識は増えるような気がするが、それが役に立っているのかいまいちまわからなくなってきた。
最初のうちは、新しい認識にふれるみたいな感覚で楽しめたものだが、
最近では、それを追うことにしんどさを感じてきている。
なにがよいのか?
何のために?
誰は嬉しいのか?
少なくとも、自分は喜ばなくなり始めていた。
so noisy
とりとめもない情報が記載されている。
「日頃の感情の高ぶりをぶつけられても」と思って冷ややかな目で見ていた時期もあった。
しかし、当事者の立場がなんとなくわかり始め、それもありなんだなと思うことも増え始めた。
ある種、エネルギーが収束しているのかもしれない。
だからなんだということもあるのだが、なんだ?
どうしたいのだろう?
見なくて済むならそれに越したことはないが、ついみてしまうのが問題だ
見ないで済むようになりたい
根本的な問題は、なんとなくは分かっていることだろう。
「恐怖心」
これが根底にあることは間違いない。
一瞬克服しても再発。ジレンマと疲弊
日々の情報過多のせいか、
たった一日で、無視したい事実を忘れてしまう。
神に貼ったり、
こんなときにも、「誰かがいてくれればな」と、頼りたい気持ちが生まれてきてしまう。
それはそれで構わないが、このような錯覚も、ぼくを蝕んでいることだろう。
ああめんどくさい。
頼りたさについて
依拠したい時もあれど、できものも、人もいない。でも、そう感じてしまうのは、アイツの仕業に違いない。
というのも
依拠というのを物質的な面で見たら、住居や道路、パソコンや食べ物、それだけでなく、細胞、水や酸素、分子間力、宇宙に依拠しまくっている。 そして、それを当たり前に感じている。
でしょ。
結果的に
生き物なので、依拠というと精神的なものが100%である。
多分直近で怪我するなど、ひ弱になるような出来事が置き、 さらに、仕事も結構長びき、2ヶ月の遠隔勤務で精神状態が健康でないというのが原因だろう。
最近、楽しさや心地よさをあまり感じられなくなっているのは、確かなのである。
身体的にも脳内物質的にも、何かしらの問題はありそうで、ちょっと可哀そうという気持ちもあるんだなぁ。
病院にいくというのもだるい
ので
ひとまず、寝るといいのであった