部分的に認めてしまう癖
自我の癖として、部分を全体とみなしてしまう「省略癖」がある。
この「癖」を使った「対象Xの要素のうちA,B,CのうちAは問題ないから、目をつぶるし、なんなら全体的にいいかもしれない」という思考方法が存在する。
その場をやり過ごす有効な手段になりうるが、一歩間違えると後々大きな不協和を生み出す事になりかねない。
弊害の構造
スマートフォンをイメージして考えてみる。
例えば、A,B,Cの機能がついていても、D, E, Fの機能が弊害となっていることがある。
そして、自分はD, E, Fの機能を認知すらしていない。
もし、D, E, Fに伴う問題が発生したとしても、自分は「何がおこっているかわからない」状態になる。
まとめると、
ある目的に沿って対象Xを選択する。
対象Xは要素A,B,Cが存在している。が同時に、要素D,E,F...も存在する。
そのうちD, E, F..はある目的のためには、容認できない可能性もある。
だが、何かしらの違和感を感じたとしても、一度選択している手前また急な変更も難しい場合は「許容」し続けることになる。
根底的には「不適切」なため、どこかでしわ寄せがやってくる。
また、対象Xに対して、その気持ち悪さを解消するために「良い面」を積極的に探すようになり、違和感を正当化しようとしてくる。
このとき、この正当化に「ただの感情」を使い始めた場合、より違和感が大きくなる。
この整合性を保とうとする働きによって、自分の意識内で「ズレ」が生じ、実際心が受け取っている物以上の「錯覚」を受け取ることになる。
更に、そういった違和感を周囲に放出し続けることにもなる。
また、この時、以下を根拠に正当化しようとする。
- 「省略癖」「部分的によしとみなす機能」は、生物的に必然である
- 何でもかんでもすべての情報を収集するのは不可能なので、こういった選択も時には必要
容認が覆される時
例えば、使っていたスマートフォンを通して、何かしらの金銭的被害にあったとする。
この時、「信じていたのにこのメーカーはクソだ、もう一生使わねえわ」と逆ギレすることになる。
そして、この選択をしてしまった自分自身に対しての後悔も生まれる。
最初から選択しなければ...、そう思うようになる。
解決策
思い返すと、精神的に沈鬱だったり、物理的に疲弊しすぎているときに判断が鈍り、誤った選択をすることが多い。
下記の2つの考え方を採用している時は、そこまで問題なかったと思う。
- 対象Xの要素Aが良かったとしても、他の要素にリスクが有る場合は、そのリスクが発生したときの対処や手間を考えて行動する
- 期限付きで、調査・研究目的での選択し、明確なリスクを排除する
- 例えば、1000円で買えたらNヶ月試走させてみて、良い点・悪い点を列挙し、それを元に次の一手を考える
根底
これが人となるとまたとり扱い方が違ってくる上に感情的な揺れも生まれるので、煩悩の種になっていたように感じる。
基本的に最初からうまく行かないことを直感していても、あくまで直感のため、それを裏付けるデータ収集に走ろうとする。
しかし、直感していたとしても、肯定的な方向に持っていきたい思いが自然発生する。
そして、いつのまにかデータを良い方向ばかりに解釈し、事実を事実以上に膨らませて解釈(期待)してしまうようになる。
株のトレードでも似たようなことが起こる。自分が買った株は上がると思い、それを裏付けるような情報を集め始める。
思い返すと今まで入手した空想上の「肯定的関数」に当てはめ、そのフィルターを通して言動・事実を解釈していた。
自分に必要なのは、このフィルターがクソほど役に立たないものだと一度考え、毎度「肯定的関数」「否定的関数」、これらを事実の間に挟んでいるなということを、まず認識することである。
今後は、肯定的関数も否定的関数も一度リセットした上で事実を認識して、やはり限界まで考えて行動していこうと思った。