ささやき声
人の意見や新しい考え方のパターンが入り込んでいる時、気づくとその影響をもろに受けていることがある。
大丈夫でないようなことも、優しい顔で大丈夫だよと囁かれている内に、どこかのタイミングで判断力が鈍り、その瞬間、痛手を負うことになる。
参考程度に
人の意見はあくまで参考程度に。実験材料を手にしたと思うのが良いのかもしれない。
だからこそ、人に何か述べる場合は厳重に注意しなくてはならない。
結局一意見としての発言であり、可能性の一つでしかない。
なので、数ある可能性の一つであり、あなたの場合は当てはまらない可能性もあります。まで言ってもいいかもしれない。
そもそも、そう言う性質のものという前提なのではないかということは置いておいて。
痛手なのか?
今となっては大局的にも根本的にも痛手と思うようなことは特になくなった。
しかしながら日々の幸福追求においては、精神的な苦痛が短期的に発生する場合でも、まだ身体的パフォーマンスに影響があるように思える。
もう少し運動量を増やし、かつなにかしらのインパクトを与えて矯正すればなんとかなる、気がする。
利益ベースで考えて迷う時は
個体にとっての短期的利益、長期的利益、その他の個体にとっての短期利益、長期利益のうち、最も最適な解答を得ようとするとなんだか難しいように感じるが、ある程度影響を及ぼしてしまう人数の範囲と期間を考慮すれば良い。そういう考えもしてた時期はあった。
が、どうにも、その考え方にも限界がある。
余裕のない時にそう言った癖により無理に活動することになり、苦しみ始めることになる。こういう場合は、苦しんでいることすら忘れてしまうケースもある。
じゃあどうするか。
結局どうもしない
結局はそう考えていたとしても、知識量や思考力の限界は存在する。 なので、どうでもいいと思えるのであれば、そのときはどうでもいいと思うのもまた一つである。
しかし、きっとあなたは、あの時こうしておけばよかったと思う時のほうが多いかもしれない。
で、その辺もこなしたとしても、疲れていたり、今は余力がないと決めつけたり、誰かが考慮してくれるだろうと思ったりして、また同じような失敗をした場合には、反省不足・考慮不足と自分自身をなじることになるかもしれない。
で、その辺まで考えようとなると、いよいよである。
自分の今のキャパシティの見積もり、成長見込みはあるのか、
完全に個体の最適効率で動かせたとしても、それを知ることはできないし、変数も多すぎる。
というわけで、結局色々考えるし、ミスもするのでその前提を考慮して物事をおしすすめるのが良いような気もする。
何かしらの簡単な方針を持つだけでよさそうな気もしてくる。
一応言語化する能力は持ちつつも、方針を頼りにしつつ、臨機応変に対応していく。
ということで結論は変わらなかった。
方針、どう考慮すればいいかは考えてもいいかもね。
それも絶対じゃないが。