最終結果
- 身近な人間にフォーカスするようになって、個人的には人生が深まってよかった
よかったこと
いまいちだったこと
- 自分に起きた出来事を客観的に述べる人(述べようと思う気持ち)がいなくなる
- 他人と比較した自分の「立ち位置」がわからなくなる
- twitterのフォロワーが比較対象になっていた感じ
- 「twitterをしている人間」が存在していることを忘れる
- 「twitter」を楽しむということを忘れる
- 「twitterでつぶやきたい脳」
わかったこと
twitterで日常の出来事をつぶやかない人の目線がわかったきがする - 彼女や親や友人などがいて、その人にその日あった出来事を共有しあえる。 - 親しい人でなくても、自分発言が自分の満足の行くレベル(※1)でその行動や感情を認められていればよさそう(いいねの代わりに)
※
満足の行くレベルというのは、自分の解釈次第で変化する。
「忙しいながらも、返答が曖昧ながらも、少しでも聞こうとしてくれている。そもそも話を聞いてもらえる間柄になってくれている。話しても特にマイナスにならない」
という面だけあれば、とりあえず認知されているということがわかってよいかもしれない。
かつての自分の思想
- これ言ったら役に立ちそうみたいな目線でつぶやいていた
- がしかし、つぶやくことに何かしらの抵抗があった
- 「自分のフォロワーにこれを言っても何受け入れてもらえない」
- 「自分の発した情報は何も成さない。誰にも影響を与えない」
- 「つぶやいてもどういう気持にもならない」
- twiterやめると、何人かのリア友+その人の近隣の人の情報が遮断される
- その分、より身近なリアルな人たちにフォーカスするようになった気がする
代わりにinstagramなどを見ていると
自尊心を満たすことで自慢・よく見られたい・上に立ちたいみたいな欲求が渦巻いている。そんな気がした。
SNS自体が面倒に感じたのはそのせいなのかもしれない。
バズることを意識しすぎた色々が見えすぎてしまうということなのだろうか。
しんどい世界である。
その分twitterはいろいろなハプニング(と本人が感じた事象)をうまく調理して、昇華する文化が見られ、それを度々目にすることになる。
それが度々現れるおかげで、「ハプニングに肯定的・対処して楽しむような前向きな姿勢」の維持に多少足しになっている気がした。
とはいえ
勝手に思いが生まれるのは、仕方ないが、どう受け取るかは自分次第なので、うまく使っていこうということでしょうな。