「ooでえらい」みたいなな表現を最近よく聞くようになり、違和感を感じつつも、流されて使っていた。
あれは暗黙的に優位性を示すある種のマウンティング表現である気がしてきた。
というわけで、私が使われたらムカつくので、もし使ってくる人が今後現れたときに代替案を示せるようにここに備忘録として記す。
定義
普通よりも優れていることを示す表現というのがわかる。
癇に障る部分
親が子供に使う場面を連想してしまうからかも。
例:生きているだけで偉いのか
個人的には、そうとも言えるし、そうとも言えない。
死んでも偉いと思う。
そもそも、優劣の属性を持つものではない。
ということは...
違和感の正体がわかりそうである。
違和感の正体
- 他者と分別し格付けする面
- 構造上皮肉として作用しうる面
- 評価できないような対象を評価している面
大きくこの3つが違和感の正体だと思う。
代替表現の模索
「ooでえらい」というときに伝えたいニュアンスを、例をもって考えてみる。
例1 歯を磨いててえらい
人が物心ついて10年20年と生きると、自分の日頃の行動が、実は続けるのが難しいような、思ったよりも稀有なものだったことが、判明してくる。
例えば朝に顔を洗い、夜歯を磨くことでさえ、しつけが継続的になされていた事実が反映されている。
そういった小さな意思決定の土台となる諸々の知識や経験を獲得することひとつにとっても、なかなか一日二日で身につくようなものではない。
さらに、歯というのは、現在の一般に利用されている範囲の技術では人工的に生成することはできないため、1本失うだけで数百万円失うことに鳴る。
したがって、そういった自分の資産に暗黙的にでも認知し、最善を尽くす姿勢は称賛に値する。
例2 生きててえらい
生きることというのは、本質的に苦である。
安直に考えれば、苦の消滅は、「死」を持ってしてのみ実現するというような考え方に陥りがちである。
だが、あえてその安直さを捨て、苦を乗り越え克服し、生を全うすることは、仏教で言う「阿羅漢」にほかならない。
「阿羅漢」の領域に達するのは、一朝一夕にはできない。
浅学非才であまつさえ安直な選択を選びうる私からしてみたら、当然それは称賛に値することである。
ネガティブ目な感想
「えらい」と行ってしまった場合に自分に降りかかる苦悩を考えた。
評価すること自体、おこがましかった気がする。一体私に、あの時のあの人のどんな側面が見れていたというのだろうか。「えらい」という言葉で片付けるのには、何も見てきていないし、ただその言葉だけを置いておき、見ないようにしているのではないか。
わざわざ自己を相対的に下げ、他者を騙そうとするような卑劣な言動とも言えるのではないか。
本来存在しない「えらさ」を押し付けて、無駄な思考をさせて迷惑だったのではないか。
大雑把なフィードバックとしてのえらい
親などであれば、そういった観察が行き届いているし、「一人格者としてよい行い」を是正するための端的なフィードバックとして有用なため、言っても良い気もした。
- 君は人として正しい行動をした
- 一人前になるためにはよいステップを踏んだ
などこれらを端的に一つの言葉に圧縮して、対象にフィードバックを送ることことができるのがメリットってわけだな。「えらい」というカテゴリで対象に認知させることができる。
しんどい人に投げかける優しい言葉だった側面
根本は自分が言われてどうかというのは、関係ない。
「えらい」と言わなければ、崩壊してしまうような他者に対しての救いの一言だったのではないか。
その慈悲の気持ちが今となっては形骸化してしまい、セリフのみが残っているようにも感じるのが気持ち悪さのひとつなのかもしれない。
自分の心の問題
たとえば、おまえうんこくさいね。などと身に覚えのないことを言われたら、ムカつくのと一緒な気もする?
覚えてないけど、言われたときに全然的を射てなかったからなのかもしれない。