試行回数が増えると勝ち・負けに収束するデッキ
環境首位、つまり強くなりうるデッキはあらかじめ決まっている。
そのデッキのためのカードを揃えて、ある程度のプレイングを身につければ引きが良ければ勝てるものである。
あるタイプのデッキが「勝てるかどうか」は研究が進めば発見され、自ずと答えが出る。
プレイングについては当然、何も出さない、攻撃もしないというのは論外である。
構成やカードパワーが強いので、とりあえず攻撃だけすればまあまあ勝てるデッキもあるし、
めちゃくちゃデッキ運用頑張って、ギリ勝てるか勝てないかみたいなデッキ(というかカード)も存在する。
勝ちの定義
普通「勝ち」は定義されている。
あるプロセスを経てあえて負けることが目標であれば、試合の勝敗を超えた「勝ち」を手にすることができる。
自分がどこのルールに沿っているかというだけである。
もちろんこの場合、「誰に」「何に」勝っているのか?という話にはなるが、
勝ちという概念は、個と個という意識の上でしか生まれないような概念ではある。
つまり、個人個人が存在する場合の中での概念である。
実際のところ、個体は居るものの厳密に分割することはできないという見方の上では、個という概念が消失する。
分割不可能
例えば、切り離した左手が自分の一部ではない気持ちになる。
だが、例えば、左手を食し、取り入れたのであれば、左手は再び自分であると言えるのだろうか?
「空気」は、自分を構成しているわけであるが、構成要素として外れている。
だが、酸素を取り入れているし、空気中の酸素の比率が違えば生きることはできない。
また、地球や気温も必須の構成要素となるのであるが、普通はわざわざ分けて考える。
すでに切り離されているとみなしている一切のものは、自分でありつつ、自分でないようなものである。
体内に生息する最近や一つ一つの細胞は、一つにしぼれば自分ではないが、全体を考えると自分となっていく。
その意味では、他者も情報として影響を受けている以上、一部自分のようなものである。
そんな中で何が勝ったか・負けたかというのは、意識の上での自作自演でしかない。
成功や失敗という属性を付けているだけで、現象であり情報でしかない。
ポケポケをやっていると、そういうことを考えてしまう。
境界を設ける
ある特定のルールを知っているグループ同士で、そのルールをお互い認めたうえで勝負が成り立っているわけである。
ポケポケ界というのは、そういう世界である。
人は無意識に結界を張り、その中に自分を閉じ込めて行きている。
自分でも知らないうちに。
楽しみどころ
例えば、あなたはギミック系のデッキが好きなわけで、そういう性質が人生にも反映される。
与えられた勝利では満足できないのだろう。
自分の好きなスタイルで勝ちたい?
勝ちたいなら、環境首位のデッキを使いなさい。
それは嫌だと?
なら、これを使いなさい。
あなたは、一時的に環境トップデッキ使って勝利を手にしても、必ずつまらないと言うタイプだろう。
あなたの好きな勝利を手にしていってください。
そういう人生。あなたは十分もがいて足掻いて苦しみきったと思う。
諦めてくれ。先人たちもそうせざるを得なかったからこそ、そうなっていったのだろう。
わかりきっていることを確定するまで対峙するのは君の癖だろう。
そのわかりきっていることは、徐々に近づいてているのではなかろうか?音を立てて迫ってくる。
最小限の構成で人生に対しての示唆を示してくれる、良い体験ではないか。
そろそろ十分遊んだだろう。ポケポケに使っていた時間を他に費やすいい時かもしれない。
後1週間くらいやったらアンインストールしよう。
もうあなたは、あなた自身がこの星の無数の塵の一つだと理解しているはず。