人を介入する味付け
事実の加工場である人から生まれた物語から情緒を省くと残るものがある。
人々は、ある特定の信仰対象の代表者から生まれる物語を崇拝し、ありがたがる傾向にある。
よく見ると表現や出自のオリジナリティこそあれど、中身が同じと思えることもある。
ただ、味があると思えることもあるし、でたらめな味付けに嫌気が差す時もある。
パクリ味でドヤ顔
パクリの味付けのくせに「自分が作りました!」という顔する輩もたくさんいる。
確からしさと生産元
事実は誰が言っても同じはずなのだが、事実っぽいものが生まれる場所によって信憑性が変わる。
年をとると出自を調べる時間が取れなくなり、確からしさが高い方へと流れていくような気がする。
信頼できる生産元から取れる加工事実をいただくことになるが、「味」のために別の生産元に訪れることもある。