他人や社会を理解しようとする試みに影響を受けすぎた
例えば、 - 「Aさんがやっているので、Xを始める」 - 「Aさんが見ているので、観る」 - 「Aさんが考えているので、そう考える」
これは、2年前からしていた「社会に馴染む」という考えがある程度維持されているがゆえに頻発していたと思う。
この馴染むには、他人が考えていることを考えてみようだったり、「なんでこう考えるに至ったのか」その道筋を考えるための引き出しを増やすだったり、そんな意図もあった。 他には、こんなことを考えていた。 - その人が体感したことを体感していくことで、その人を理解を促す - 自分が体験していないことをあえてすることで、「新しい認識」を獲ることができるのでは? - 対象Xに対して、指向性の高いものあえて採用することにより、その場を盛り上げる
これをしこたま繰り返した結果
面白いのは面白いし、楽しいのは楽しい。何が面白いかも理解できるし、何が楽しいかというのも考えれば理解できるが、その感性を積極的に採用したいとは思っていない。
昔良いと思っていたものも、現代的な汚染と思えるような苦手要素が加わることによって台無しになっていくような気持ち。
ファッショナブルな要素として、他人にアピールする要素として、選択されるものに違和感を感じる。
- Aをするとおしゃれと思われるのでそうする。みたいなやつ
- Aを一般的にみんなやっているので、やっている。
- Aははやりでクールなのでそっちに流れるみたいなこと
- Aをやっているので、逆張りする意識
- Aをやってるので、自分はこれという意識
そんな経験を沢山繰り返すことにもなった。
世の中どうなっているのか
自分が体感してみてわかったことは、大半の人がこのように、さまよえる意識状態にいるのかなと言う研究結果。
本当にさまよっている感覚。
ほとんどの人と一体感みたいのが得られた感覚がなく、どこかしら距離感を感じてしまうのは、そうはなりたくないという意識が根底にあるからなのかなと思ったのであった。
蛇足: 友達にシェアするという感覚
友達にシェアするというのがよくわからないし、SNSでシェアするのもよくわからなかったが、
模倣することによって、理解はできたかもしれない。
だが、今後それを採用していくことはないように思えた。
自分の場合は、合理から織りなされるハーモニーとそこに何かしらの非合理のエッセンスが加わる何かを良しとしている傾向にあるため、そうならない限りはその感覚は得られないように思った。