about
いつまでもモヤモヤとのこっている感情・観念に対する備忘録
ある信号としての感情
基本的には、マイナスとされる感情は問題に対しての速攻の警告である。
ユーザーに対して「トータルで考えて回避すべき案件です」と示している。
「回避しなさい」という命令のようなイメージ。
したがって、回避するのがベストかというのが一番最初の回答である。
逃げられない観念の理由
観念は観念によってサポートされる。
ある観念Aは、ある観念B,C,... によって存在が許される。
例えば、たべものを残してはいけないいう観念は、たべものを残してはいけないデメリットや、経験的感情によって生まれれる。 - 昔残したら親に叱られた - お金を無駄にする - 残したときに人に嫌われたことがあった
したがって、これらの記憶(情動?)と連動して行動が発生している。
これらの記憶は殆どの場合、感情的なラベリングが存在する。
簡単に整理すると「快・不快」のラベリングである。
それが不愉快かどうか(基本的に対処したいのは、不快方向の観念なので、ここでは不愉快にあえて重きを置く)
問題となるとき
観念Aをサポートしているその他の観念、情動が個体の処理上限値を上回るようなときが問題になってくる。
回避しようとしているが、別の観念によって邪魔される
基本的にはこの様なときに、処理能力的に破綻する。
「Aを回避したい、でも観念B, Cがあるからなぁ...」
「Bを回避するには、E, Fを除去・解釈変更する必要がある...しかし、Eを回避するには...」
というようなネスト構造の罠にハマってしまうわけである。
したがって、滅多なことはするもんじゃないというようなことが、ことわざとなって至るところに存在しているわけである。
たまに、労働超過(業務以外も含む)や甘えた解釈をし続けるような、ミスをしたときに、こういった状況に「嵌(おちい)る」。
自分では、気をつけていたはずなのに、甘えた気持ちが出てしまった。という観念も生じ、ループが発生する。
で、このループに閉じ込められているような状況に陥ることがある。
それでも破綻させたくないとき
例となるシチュエーションとしては、いわゆる大切な人がいるときや大事な用事があったときに、別に法的に問題があるわけではないが、自分自身の中での規律違反があったときにこう思うことになる。
その規律違反はあえてしてしまったかもしれないが、それでも自分の中でのポリシーである。
よって、永遠と悩むことを「罪」として生きることになる。
また、その「自分のミス」をいつまでも気にする人がいることで、「罪」の意識をより一層感じることになる。
さらに、それを一層強化する観念が、
体感してみよう という感情である。
これがこの個体にとって一番厄介な危険思考である。
サポートする観念の多さ
- リスクを一時的にリスクとみなさない
- それに対しての批判的意識
- 馬鹿に対する不愉快さ
- また再び発生する可能性への恐怖心
- 自己同一性の保持
- その意識構造の人間に対する不愉快さ
- どうすることもできない他人に対して誤った期待をした
- 自分自身の全人生の否定
- だいたいのことはなんとかできるという観念によるなんとかできなかった悔いと甘えの感情
- 「記憶は消えないし、この人がやったことは本当に馬鹿だと思う」コイツはそういう人間なんだという意識を消したくない意識
- 人間をラベリングするもんではないという考え方
- 気にするな。といっても気にしてしまうことに対する自責の念
- ある性質を嫌っているが、自分がその性質に当てはまっているように感じる状況
- もともとの目的を忘れたとき。その目的が『甘えた真似』をするための言い訳に聞こえるとき
- 他人に会いたくないのに合わなければならなくなる
- 作業をしたくないのにしなくてはいけなくなる
- 構造として破綻しているのは確実なのにも関わらず、居座ることを選択せざるを得ないが、それが慈悲的な気持ちからではないとわかっているとき
- そういった他人に対して、慰めるような真似をしてしまっているとき
- 「戯言」を駆使して、本質を捻じ曲げるような現場に出くわし続けているとき
- そしてそれを肯定せざるを得ない力のない自分に対する自責の念
- その力とはなんだという疑問
- せっかく精神に蓄積させてきた感情を捨て去るなんてもったいないじゃないかという意識
- 参考資料として重宝したい意識
- コレクター魂が感情に向いてしまった
- 再現性がなくレアなため、時間経過とともに失ってしまうのがなんとも口惜しく感じてしまうとき
- 発生するめんどくさいやり取りを想像するとめんどくさいと思ってくるが、不可避になってしまう構造
- 解消するための選択肢が取れない未熟さ、思慮浅さに対する嫌悪
リスクを一時的にリスクとみなさない
この個体は、リスクをほとんど正確に捉えることができるはずなのだが、たまにそれをごまかす時がある。
「いや、これこれこういう解釈上は大丈夫だよ」 などと抜かす。
新しく発生する構造
この個体は複数の性質を持っている。
- リスクを好む
- リスクを避ける、リスクに直面し、その被害を受けるときにつらい気持ちを発生させる
そして、この馬鹿と一生付き合わなければならないこの個体を哀れに思ってしまう観念も生じる。
何回目だという話だが、そろそろまた眼を醒まそうか
このように、適当な観念を論拠とある観念・感情を証明しているような構造になっている。
しかし、一個一個を見てみると、どうでもいいわけである。
この個体の感情的なわがままをいつまでも対処しなくてはならないってことに気がついただろうか?
夢の中にいるような、気持ちでふわふわとしてしまうのもわかるが。
目的を見失っているのもわかるが。
しゃあないよね。って済ましてあげることしかできない。
最後に
一個言ってあげると、あなたは本当に何もしていないんだが、勝手にこの様な観念を生み出している。
そんな、頭のおかしい遊びをしているんだよ。
ただの遊びなんだってところを、少し意識してもいいのかも。