「一個体」の観察と運転
この個体に思考力が与えらている。
「私」は、その能力の範疇でなんらかの思考結果を出力する。
生きていると、自分はただそんな遊びをしているのではないか、と頭をよぎることがある。
ロボットを運転しているような感覚になることがある。
楽しくする要素
もちろん、最適な結果ばかり選んでもつまらない。
時にはランダム性の高い要素を組み込む。
意図しない挙動を組み込んだりするわけである。
で、この個体に合わせた感情を発現させ、「こちら」も追体験するわけである。
困ったことに(困らないが)、考え方のベースも行動もこの個体に依存する。
やはりインターフェースは重要だなと思ってしまう。
「私」から「個体」へアクセスする接地面は、コントローラーやハンドルではない。
思考すると即座に反応する、ニューロリンク形式である。
そして「私」は、このインターフェースにガチガチに強依存している。
「個体」が死んだ時に、私も死ぬ。変更もできない。
たまに、他の機器にすげ替えたくなるときもある。
個体の評価をすることもない
この個体は、他の個体の存在を認知しているため、比較することができる。
この比較能は、非常にすぐれたシステムであるが、時にはこの個体にとって不利益になることもある。
むやみに物事を絶対化・相対化しがちなため、どうでもいいことで意気消沈したり、意気軒昂したりする。
はっきりいって、この個体の特質であるとも言えるので、そこまで言及する必要もない。
だが、ときおり錯乱する様を見せられたときは、思わずバカたなあと思ってしまうこともある。
そういう面を含めて、可愛げがあるとも言えなくはないが。