喜びとセットで訪れる不足の観念
誕生日は喜ばしいものという観念がセットになっていたことで、祝われないことによって無意識的に「マイナス」の観念が生まれるイベントでもある。
なぜ祝うのかを整理する
親目線で考えたら簡単な話である。
死にやすい生き物である乳幼児が育っていったら毎年「かわいい!やったぜ!」となるので、何かしらの祝いをしたくなるのは当然のことである。
生き物としてのサガっぽい。違うかもしれないけど。
親に対して祝うのは「親孝行」「ねぎらい」「存在の認知」という要素がある。
兄弟に対しても似たようなことで、僕の場合は兄弟が旧知の仲で、彼らに友達もほとんどいないという認識であるため、「仲間」としてねぎらいをしていると思う。
したがって、そうではない友達に対しては特に何も思っていないし、他の人は充足しているように見えるので、何もしないのが当たり前である。
残りは、本能的に好きなのでなにかあげようというパターン。
加えて意地のパターン。右の頬を叩かれたら左の頬も差し出しなさい的なパターンである。
誕生日祝いの効用
祝うことによって「存在を認知していますよ」「特別な存在だと思ってますよ」というアピールができる。
そういった仲間意識を形成するために、有用という気もする。
今後は動機が欠如しているときはやめておこうって思う。