何かを対処してもなにか別の念慮が生まれる。
そこに「めんどうくささ」という 感情を無意識にラベリングしているようだ。
このラベリングと「対処できない感覚」は、自分の限界を示すものなのか?それともこの個体の適切な反応なのか、もはや判別がつかなくなってきている。
最終的にあらゆる意欲を面倒くささの前に、並べることで、有無を言わせず完封しようとしているかのようである。
もちろん、片付けをする必要も全くなければ、人間関係を円滑にしていく必要もまったくないし、社会に迎合したり、文化的な生活をしたりする必要すらない。
おそらく、その先に見える自由を見据えての行動なのかもしれないが、この個体は自分にすら気づかないように行動させないといけないと、躍起になっているだけなのかもしれない。
そんなことを考えると、必然のまえにはただただひれ伏すしかないんだという気持ちになる。
結論づけたがる傾向
- だからどうだという結論を一旦付けたがる傾向がある
- ある一定のそれっぽい答えが出るまで頭を休めない傾向がある
- その場に応じた感情をわざわざ発動させようという傾向がある
この辺は、日常的に自分に刷り込んできた傾向である。 しかし、こういうこともわざわざする必要がないような気がしてきた。
色々蓄積させてみたら、そんな気がしたのでそういう面もあるかもしれない。
集中力の低下
- 集中力が低下する原因に対して、対処できていない
- メンタル・知力のリソースを沢山消費するようなことに対して、慎重さが足りない
睡眠不足を招くような、生活習慣になっている。
昨年の揺れ幅はあるものの1月からこうなっているわけだが、これはなんだろうという疑問させ、無粋な気がしてくる。
簡単に言うと、仕事以外でやりたくないことをやりすぎた結果ということになろう。
様々な意思決定材料が、最初から答えが出ているようなものばかりだと思う。
昨年はこれを自分の限度以上に捻じ曲げていった。
ひょっとしたら、自分が考え違いをしているかもしれない、という考え方の元、あえて違うことをしてみる。
これを繰り返した結果の産物である。
いつもだったら、リカバリが効くものの今回ばかりは難しいのかもしれない。
打破に伴う副作用
この副作用もたかが知れているが、今の私にはその打破にあたって、様々な空想をし、その空想によってダメージを受けるすべを身に着けてしまった。
このダメージは、ほとんどイメージである。実際に物理的なダメージを負うわけではない。
が、反射的な反応にまで落とし込まなければ、実践では使うことができないという強迫観念があった。
この強迫観念は強固で、固くからまった麻紐のようになっている。
どこかで気合を入れて(?)、さあほどこうと思い立ち、しばらくそれに専念しなければ、實現できない。
今そのエネルギーが殆どないような状態と自分を定義しているのだから、どうしようもないかもしれない。
ステップbyステップ
といっても方法は至極単純である。 自分を苦しめている対象を謝絶していくことがまず第一歩である。
しかし、それもそれなりのエネルギーが必要なため、そのエネルギーを養う必要がある。
こういうちょっとした対処を小刻みにやっていくのももちろんありなのだが、それ以前にまず最初に何も問題ないとみなし始めることが大切である。
実際の問題
- この個体の自立心のなさ、もしかしたらいつか救ってくれるかもみたいな期待感
- 次はないという絶望感
このへんでがんじがらめになっている。
ので教えてあげよう。
- 期待する必要なない。あなたは、いつぞやかそういった生態系を見すぎる中で、その観念を形成してしまったようだが、あなたの認識で変わる。
- 元々は何事も自分一人で対処するのが普通という考え方だったはず。ということはその考え方を新たに採用することもできる。
- もちろん、あなたに強固に植え付けられた固定観念をすっ飛ばすのは骨が折れるかもしれないが、実際はいくつかの質問とかんたんな思考実験の繰り返し、それによって生じた新しい「排除の欲求」によってバランスが取られるはずである
- こういってごちゃごちゃ説明したとしても、理解に苦しむだろうが、あなたの心の平穏を一番に願っている私から伝えておきたい。
次はないと思っていたとしても、どうしても次は来てしまう。 - いつか自慢したいだけなのではないか? - 何かを成し遂げた姿を見てほしいのではないか? - 約束事が一切なくなったときに、また新たに呼び起こされるようなことを期待している。それでいい。
ということで問題ないよね。
あなたは、どうやら多種多様な角度から見て分析することに長けているようで、それを無視していくのは心理的に抵抗があるということで、今のような考え方に陥っているはずだ。
ということで、とりあえず「人として善良」であることをみなしてあげよう。
なぜなら、あなたは自尊心不要と理解しているが、この数年間で人々の自尊心を獲得するさまを見て、取り入れてしまったばかりに、不要なものまで必要になってしまったのだから。
あなたは、無条件に素晴らしく、無条件に素晴らしくない。
そもそも、他者からなにかをラベリングされて、何がどうだというんだろうか?
「かっこいい」「すごい」「かわいい」などの当たり前の形容詞にその場で反応するすべはもう身につけただろう。
わざわざ思い込む必要はなく、そろそろ実際のところを見なくてはならない。
あなた目線でそうなのかもしれないが、実際のところはそういう概念はないということでOKである。
というわけで、諸々の作品を楽しむための基礎を手に入れたということで、満足していただきたい。
形容表現以外は?
とりあえず、形容表現を投げかけられたときに、その部分を探して当てはめるみたいなことをしているのが見て取れる。
なので、すべての形容表現は肯定可能になってしまう。
その観念を持ち続けたために、自分自身がなにか形容したいときに、これは私のかっこいいだったっけか?という疑念が生じている。
というわけで、本質的に考えるべきはそういった言語的ラベリングをそこまで用いずに、対象を表現することである。
あなたは、世間の思念で汚染された「かっこいい」というワードを使いたくなくなっている。
それはあなたが、世間の考え方を一度理解できたという印でもある。
しかし、その世間(もちろんあなたが認識している集合なので実態はないが)の表現技法と自分が今まで培ってきた表現のギャップに苦しんでいるのではないか?
また、それを取り入れてしまうことで、「間違えた」自分のかっこいいができなくなった。もう資格がない。という諦めを感じているのではないか?
これは盗人猛々しだとか、なんとかいうことわざにつながってくる。
こういった観念上の理不尽と自分を苦しめる思考を打破することもまた大事である。
こういったときに、自責の念に塗れることもなかろう。
これは、感覚に対しての真っ向勝負と考える事もできるので、負けず嫌いなあなたにはぴったりではなかろうか?
ミーム化
最悪なのはそういった考え方自体も「ミーム化」してきた結果、自分のアイデンティティが脅かされているような気がするというのもあるだろう。
しかも、そのミームには優しさや強さが感じられるわけではなく、ただの文章の羅列でしかなく、言っとけばOKみたいな感覚で語られることに対して、ある種のがっかり感を感じているのかもしれない。
苦手だった方面の理解も進み、それ故にそれなりに事情があるゆえということがわかり始め、どう扱ったらいいのかわからなくなってきた。
各々の頭の回転レベルや育ちやメディアにどれだけ信頼をおいているかなど。
たかをくくッタ部分は必ずあとで回収しなければならなくなる
最近は疲れすぎた影響かそういう部分が疎かになって、同じような過ちを繰り返してばかりになった。
というわけで、流石に申し訳ないので、注意して見ていきたいと思う。
反転術式わからん問題
相手がどう受け取るかを読み取って文章を書くのができなくなってきた。
やっぱ過度なタスクを認知しているせいかな