はじめに
2020-11-01 18:22:44 数年前(2018-08-24 01:18:43)にタイトルの下書きだけ作っていたようなので、考えてみた。
「100%くらいそうであると信じている状態」
例えば、水は100℃で沸騰しますが、これは一般的に正しいと言えそうです。
ここで、「水は10℃で沸騰する」と100%くらいに思ってたとします。
これは一般的には間違っていそうです。(沸騰するという現象は「気体になる」という共通の認識がある前提)
基本的には、実際に蛇口から水を出し、温度を測れば、10℃で沸騰していないことが確認できます。
ですが、試さないとわからないとは言えます。
ということは
当たり前のですが「正しいと思っている」というのは、正しい場合・正しくない場合を含みます。
そして、ある特定条件下では正しくないという側面を持ちつつも、正しくなることもあります。
例: 10℃で沸騰する→圧力を高低めた状態では正しい。
正しいとみなせる状態
先程はやや曖昧な説明の仕方をしました。
例えば、水は100℃で沸騰しますが、これは一般的に正しいと言えそうです。
これもホントは試してみないとわからないですが、知識として持っているからこそ、そうと言えている状態です。
「10℃で沸騰する」についても、知識としてもっていれば、どちらも正しいことと認識できます。
実際は、正しい感・基本的には確実感を持っているので、それに呼応して正しい感を認識してるような形になります。
正しいかどうかの判定というのは、必ず人間を介して行われるものなので、正しさというのは、人間の発明とも言えそうです。
間違い/正しいの線引きをすることで、ある程度便利に物事を解釈することができますね。
というわけで、世の中は蓋然的ということになってしまうようです。
そういうの性質
よのなかは蓋然的というのは、度言う言うことなのでしょうか。
そして、世の中は蓋然的というのは正しいのか。
蓋然的というのは、
ある事柄が起こりうると考えられるさま。ある程度確かであるさま。「蓋然的な結末」by weblio
ということでした。
世の中は、ある程度確かなで成り立っているという感じです。
世の中をして、その上で世の中がある感を感じることによって、世の中を認識しています。
世の中があるという事自体、蓋然的と言えるでしょう。
これも水は100℃で沸騰すると同じレベルの話になります。
蓋然的は蓋然的か
蓋然的であることは、蓋然的でない印象と分別することによって知覚することができます。
ある事柄が起こりうると考えられるさま。ある程度確かであるさま。「蓋然的な結末」by weblio
蓋然的である状態の知覚自体は、「蓋然的に起こっているみたいなぁ」というような認識になるので、ある程度蓋然的と言えます。
ですが、起こっているか起こっていないかでいうと、実際のところはどちらでもないようなどちらでもあるような状態になるので、 蓋然的の外の概念になりそうです。事柄自体が、よくわからないものになってきます。 対象となる事柄は全て、蓋然的
最終的には何かを感じているなくらいの感想になってくることでしょう。
というわけで
哲学用語を使わなくても「そうゆうもんだ」を表現する感じになりました。