学習バンザイITエンジニアの精神安穏日記

ITエンジニアというより、IT系雑務者

犬派・猫派を答えるのに労力がかかる現象

この数年間、ある程度受容してきたため、特に気にもとめていなかったが、

急に問題意識が芽生えてしまった。

派について

「派」というのは、有る種思想から織りなされる。

思想を特に持っていない状態をよしとする思想(?)の上では、派閥が存在しないため、「ないよ」となってしまう。

以前この質問を受けたときに、昔犬が家にいたので「犬派」という感じにしていた。

しかしながら、家に犬がいたという理由は「派」になるとは言えない。

自分が犬を良しとして選択的に家に招いたわけではないし、ねこについての観察も足りないし、特に犬に特別な指向性をもっているわけではないため(猫も然り)。

また、その後猫派っぽいって言われて、そうなのかもしれない。などと思ったが、どっちの派でもないので、どっちの派でないこともない、ような気もした。

SかMと言われてどっちでもないみたいなやつと一緒かも。

所属がわかる嬉しさ

社会的には、どちらか側に属していると、相手にとって理解しやすさが生まれるので、よいのかもしれない。

おそらく、どちらでもないという状態は、敵対することも、友好に思うこともできなくなるため、相手にとっては好ましくないケースもあるのだろう。

ということで、相手が言ったそっち側になるというのでも良い気がしたが、それだと従順すぎるということで、だめなんだろう。

通常ルート

これは、性格的傾向を知るという意味でも使われる質問のようである。

この場合は、「ない」という選択肢をしたとしたら、性格が見て取れるような気がするので、良い気がした。

ただ、相手の引き出しにそういった性格特性がない場合に、未知の恐怖心を与えてしまう可能性もあるのかもしれないと思った。 また、優柔不断と受け取られる可能性もあるので、何か言ったほうがよいのかもしれない。

また、こういった質問に簡単にしか答えられないということは、意識に余裕がないとみなされ、リソースがかつかつであるという判断もされる可能性がある。と思った。

対処方法

率直な回答をしたあとに、条件を縛るか質問を答えやすく変換し、回答するのがよいと思った。

  • 主張: 例 どちらの派閥でもない
  • 条件追加: 一緒に狩りをするなら、犬派
  • 変換: 派ではなく、招くかどうかにする
    • 家にドッグフードがいっぱいあるなら、犬を招き、キャットフードがいっぱいあるなら猫を招く

自分の良くない点

受けが良い回答をしたほうがいいのかと思ってしまう傾向があった気がする。

向こうはこの情報から私の性格的特徴を読み取ろうとしているのだから、何かしら気の利いたことを言わなければ行けないような緊張感が生まれるような気がする。そんなこともないか。

最近は、率直に答えるという定型やりすぎていた気もするので、他の選択肢も設けてみようと思う。

虎派・ライオン派

小学生くらいの頃、ともだちに質問したことがあったと思う。

これは当時の知識レベルでは、純粋にどっちも強いし、どっちもかっこいい拮抗した存在という考えのもとで、質問していた気がする。同じ猫科の動物かつ、密林の帝王 vs サバンナの獣王みたいな構図なので、どっち?というような具合。

これは単純に興味があったからしていただけなので、多分犬猫派の質問もそういうことなんだと思ってきた。

他の選択肢

多分、瞬間的に他の生命体全てが候補に上がってしまうことも、労力に感じる一つの要素と感じた。

例えば、亀、うさぎ、へびなどペットになりそうなものを始め、細菌、植物、昆虫なども対象となりうる。

ペットという意味合いでは、石さえペットになりうるし、人に寄っては人間もペットにしたいと思うかもしれない。

また、地球外生命体や架空の生き物、概念さえも対象となりうる。

質問の意図としては、ペットとして飼うならというところにあるかもしれないが、動植物に対して、ペットという認識を持たないため、そういったところでも意見の相違が出てしまい、認知的不協和を感じていたのかもしれない。

ちょうどいい抽象

なんでもかんでもこうやって抽象的に広げてしまうと、会話にならないので、やめたほうがよい。

ペットという考え方

ちまたでは、ペットじゃなくて家族というような主張もよくきくが、自分の場合そういう家族という認識も持っていなく、たまたまうちに来てしまったやつみたいな感覚があったかもしれない。

おそらくこれは、両親が呼び込んだのにも関わらず、最終的に親が関与を放棄したという点で、親に対して無責任なやつという印象とともに、犬に対しては有る種の哀れみも感じていたのかもしれない。

ただ、捨てられていた者を拾ったり、不要になりそうな者を受け入れたりなどではあったので、関係性としてはWIN-WINとも言えそうである。結果的にそれなりに仲良くしてたとも思う。

そして彼らからは人間の傲慢な部分と率直な生き方についても色々勝手に教えてもらった気もする。

犬に話しかけるとき

人間語で話しかけることが前提となっているが、最近はこれは非常におこがましいのではないかと思い始めてきた。

例えば、外国人が自分のことを拉致し、全く知らない言語で、こちらに話しかけている姿を想像してみる。

あかちゃんことばで話しかけてくるわけである。

こちらは、必死で読み取ろうとはするので、多少覚えはすると思う。

だが、高度な教育を受けられるわけではないし、「どうせわからんけど」と思われ、ある程度諦められている部分もあるとする。

これとそんなに変わらないのでは?と思い始めてきた。

しかし、人間は犬と意思疎通するためのプロトコルを持っていないため、ある意味では仕方ないかもしれない。

少なくとも、動作や挙動を観察することでなんとか、会話をするような試みはしていくべきなのかもしれないと思った。

賢い犬は、人間語を多少理解するらしいわけで、よくやっていると思う。

そんなことを考えると、私には哺乳類といっしょに暮らすのは難しいと思えてしまった。

対象を金を積めば、購入できるみたいの思えてしまうのも怖いと思っていることに気づいた。

解脱

色々考えた末に質問にもう縛られなくて済む気がした。