いつものとき
知識の幅の広さと経験と怠惰
根本的な性格かが変わっているわけではないが、与えられた経験と知識によって、思う
おんなじように思っているやつ
最近友達が言っていた「キモい」って言っていた自己質問と自演回答だとか、実績の伴っていない威嚇行為などを見て、同じように思えていてありがたいと思えた。
そういうちょっとした発言でも、思い出させてくれる気がするのである。
停滞の向こう側
停滞していると感じているときはままある。
しかしながら、それはそれでいいのかもしれない。
自分自身に対する過剰な期待なのかもしれない。
実際に実力や技術が不足しているだけかもしれない。
無自覚でいるよりはマシである。
相対的な尺度を与えることで「自己洗脳」
ある意味自分、「この個体」に対して、「思念」のようなものを与え続けている。
自分が思いこんでいる方向性を「連続的に与える」ことで「自我」をキープしている。
この中には、当然社会的によいものや悪いものも含まれることであろうが、それ自体ははっきり言ってどうでもいい。
思念に違反したときには、やはり処罰を与えたがるが、しなくてもよい。
もちろん、少しの反省は必須ではある。
大体の方向性の答え
なんとなくそれっぽい感じになっていくのは、必然的な偶然である。
だれのせいでもない。与えられた思念を維持し続ける方向性によってそうなってきてしまう。
じゃあ、選ぼう
そう思っているなら大いに選択の余地がある。
とでも思っておけば良い。