前提となる解釈
大きく分けて2つの解釈を持っている。
ツールとしての解釈1
フォロイー・フォロワーという他者を認知し、その他者から投稿やレスポンスをもらえる可能性があるツール。
また、他者に何かしらをアピールするツールともなっている。
ツールとしての解釈2
画像を文章とともにしてストックする場所。ハッシュタグを付与することで、意図的に関連してそうな画像をリンクさせることができる、高度な画像系のメモ帳。
また、携帯端末の画像フォルダとの差別化が生まれるので、SNS独自の「特定のテーマ」を付与させやすい。
観察
自分の中では、知人の流入比率によって、これらの解釈のバランスが変更されるようである。
解釈1によって他者を意識し、解釈2の純粋な画像ストックのツールとしての利用からずれていく。
それによって、いつの間にか強迫観念が生まれ、なにかしらの狂気性を抱くことになりかねないと思っている。
自尊心
また、共感やいいねの数などによる欠落した自尊心の補填を手軽にできるシステム構造が存在する。
これはマイナスを作り出して穴埋めをするような構造となっている。
というわけで、気をつけているわけであるが、気をつけている事自体がちょっと意識しているということになる。
全く意に介さないレベルに早くなりたいものである。
私は実際に地面に穴をほってから埋めるのはそこまで嫌いではないが、最近では同一の体力・精神を消費して別の行動をしようという気にもなる。
固定観念事例
例えばinstagramを始めたときに、だれもフォロワーがいないのでとりあえずinstagramっぽいことをしようということで、テーマを決めて好き放題画像をアップロードしていた。
が、なんだかんだで知人が増え、無意識に他者を感じ、統一感をもたせようだとか、キモく思われない投稿をしようだとか思ってしまうようになっていた。
他にも、いいねがもらえないという邪念が湧いたり、他者とのつながりのひとつとして多少の重要度を持たせていたりもしそうである。
この中で、あえてキモい投稿をしようというのも違う気がする。これも結局他者を意識している。
また他者を意識しないということも、意識していることになるため、非常にややこしい。
何も考えるなと言うことである。
導入し続けている理由
そういった生物的な感情の生起を観察することができるため、味気ない生活には多少のスパイスとなるのではないか。
また、こういった考察が生まれるのは、ひとえにinstagramのおかげである。感謝感謝。
というのは建前で、実際には他者の影響によって、意思決定がロックされている状況にある。
普通の人は、アカウント消したあとまた登録お願いしますなどと言われたら、めんどくさいと思うはず。
というわけで、特に消す理由もなかったり、害のない側面を見たりしていて、そうなっているのだろう。
最後に
例えば、私はtwitter(新X)をやっていて、430.6億人のフォロワーがいるのだが、全員に無視されている。
そうと思ったら、自尊心もクソもない。けど投稿することにはする。
賑わうビーチで海に浸りながらおしっこしても誰も気づかないが、なんとなくやめておこうと思う。それでも草木の生い茂る場所には小便する。
しっこじゃないと言われて飲むのと、しっこと言われても飲むのは一緒なのかもしれない。
結局ベースはリビドーとなりつつも、他者が介在する場合に織りなされるハーモー二ーというのもあるわけで、それもそれでいいかもしれないが、酒のように程々にしておきたい感じもある。