2024-01-17時点での考え
自己責任という考えもooは甘えだという考えも、わかるにはわかる。
最近では論の提唱者の気分を良くするために使われてばかりいるように見えた。
ほとんどの物事は、部分的にYESといえるし、いえないような曖昧なものである。
そんなものなので、一度、「だから何だ」と思っておいたほうが良い。
「ふぅん。そういう観念をそういう立場でその切り口で話したら、確かにそう見えるかもね」
と、思ったほうが精神衛生的に良い。
過去の自分が何か気にしているなら、そう言ってあげたいなと思った。
発端
友達が甘えや自己責任論を気にしてそうだった。
なので、この論調が生まれるのはどういう考え方からなんだろうかと思い、考え始めた。
関連
自己責任論の定義の例
自分の行動の結果として危機に陥ったのなら、自分で責任を負うべきであり、他人に助けを求めるべきではない、といった論理を基調とする考え方。 危険であることが事前に予測できたにもかかわらず、危険を顧みずに敢行したのだから自業自得だとする考え方。
一切合切は自業自得だよーって話か。
自己責任論を唱える人がもっていそうな観念を妄想してみる
こんな事を考えてそう(実際は知らん)。
- 自分は頑張った。それによって貧困や困難な状態を脱出した
- とある困難(と社会的に思われそうなもので自分もそう認識しているもの)を抱えていたが、努力(っぽいこと)によって脱出できた
- 現在そういった困難から脱出できていない者は、努力や試行錯誤をしていないからそうなっている。
- それなのにその現状を「国が悪い、親が悪い、環境が悪い」などと言うのは、他者が助けてくれることを期待しているので、甘えである。
他者が助けてくれることを期待しているので、甘えである
の部分を考えると、「人の好意を当てにする気持ち」があるので、これは辞書的な甘えの意味にも当てはまると思う。
感情的には見えない部分
「すべからく自己責任なのだから、他の者や組織のせいにするのは甘えである」
みたいな、「ooなのは甘えである」という部分は、一見感情的には見えない。
少し整理する。
論に落とし込めることで「隠蔽」される感情
先程例として上げた、
- 自分が頑張った感
- 自分より頑張ってなさそうな人を下に見る気持ち
これらを「論」に落とし込める。
「論」にすると、社会的にそれなりに認められるような形式になる。
この自分の感情に「社会性」や「一般性」を武装させて、
気持ちよくなる・自分の立場を保とうとする・暗黙的に人格否定をするのが、自己責任論と思っている。
論の感情の部分
改めて切り出すと、
- 自己責任論を提唱することで自己肯定することができる
- 他者との差分を作ることで、自己の存在意義を保てる
- 論を唱えることで、他者を暗黙的に攻撃する
のような要素があるかなと思った。
運についての考慮が欠けている
自己責任という考え方自体は便利だし、場合によっては使っても良いと思うが、基本的に運について考慮されていないとは思う。
例えば、お金のない困窮した状態から、普通に生活できるようになるのが是として(それがそもそもよいかは別として)。世間一般で言われるような努力しようと思えるきっかけは人それぞれ異なる。
ので、そういったきっかけが得られた人は、シンプルに運が良いってことになる。
ただ努力しようと思えるきっかけがあり、努力できる土台が整っていただけ。
運が良かっただけ。
ただ、ある程度は運要素が絡むと気がついたら、何でも選べることにも気がつける構造にはなっている。
また話は別になるが、その後は人によっては選べすぎることに辟易し、迷いが生じることになるかもしれない。
努力とは
世の中的には、努力がいいこととされている。 これは一体なんだろうか。
辞書的な定義では、
目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。
と出てきた。
自分の感覚では
努力したとは、倫理観や社会通念や自分の生物的な性質、歴史的性質を都度利用してある特定方向に歩ませた結果、それっぽい評価を客観的に自覚できるようになった状態。
のように表現もできそうである。
一般的にいわれるような努力は、その人が「努力できる能力や環境や思い」を獲得していたがゆえにできている。
というわけで、努力できるスキルがあっても、自己を含む他者が認めなければ、「努力した」という感覚値は得られないし、努力が評価につながることもない。
蛇足
生存維持できてる時点で、まあまあな努力とも言える。
そしてそこから早急に死滅するのは、よい手札引けなかったからとも言える。
世界中の生き物界隈ではよくあることなので、色々しゃあない。
人間ならば、少ない手持ちからコンフォータブルな状態に持っていける遊びができうるので、生存を是としたときの生き物界隈での幾分マシと思える。
ただ、その分苦しみの認識も増えやすそう。これがトレードオフというやつか。
筋トレの例
例えば、筋トレが好きで、そこそこのマッチョになったとする。
特に筋肉がめちゃくちゃ付きやすい体質でなければ、そこそこの継続と時間が必要になる。
なので、マッチョになったら、努力したと言える。
しかし、だからといって、社会では直接的にマッチョになったこと自体が評価されるわけではない。
「マッチョになったこと」を世間に評価してほしいなら、こじつけやセルフ・プロデュースが必要になる。
それは筋トレをする努力とはまた別の能力になる。
じゃあどうしろと
他者からの評価を得たいのであれば、努力できる技術を用いて、その辺のプロデュース力を磨き続ければよいのかもしれない。
それか、偶然評価してくれる人を待つ。白馬の王子様/美女が天から降ってくる待ちをするしか無さそう。
とはいえ、別に自分のやったことに対して努力という切り取り方をすることもないし、本質的には行動に対しての錯覚から生じるような一定の期待をすることも無いのかもしれない。
グロい社会
世の中に触れてみると、「観念」がたくさんある。
「努力」もそういった観念の一つに思える。たまに自分の安らかな生き方の足を引っ張っている感じがする。
確か中学生くらいまでは、まともに思考できてた気がする。
医者が次第に臓物に見慣れてくるのと一緒で、様々な社会の初見の抵抗感もいずれ見慣れてくる。
そんでだんだん気にならなくなるどころか、そういうものが視界に入らないポジションに落ち着くことになりそうと思った。
この感覚自体は今は今は大事で、10年後くらいにはまた別のことを思ってそう。