今年も結局社会に迎合していこうという言い訳を使ってしまったためか、感性の鈍化と再生を繰り返していたが、そろそろ迎合方面に対して、オリジナルが耐えられなくなっている感じがする。
このままいくと、忌み嫌うタイプの平々凡々としたコースを許諾してしまうような、そんな気がしているのだろう。
選ぶことを恐れてた選択肢
ここ一年はそういった恐れていた選択肢がふとしたきっかけで、選択できるようになってきたり、やっぱりえらべなくなったりした。
かなり自我に揺さぶりをかけてきている気はする。
これはある意味揺り戻しであってこれもまた人生の演出なのかもしれない。
まずは勘定に入れるべきは自分自身であり、そこが揺らいでしまったところがある。
これは社会的に、群としてよいとされるようなことをやってみようみたいな意図があったと思う。
が、それのまずさもある程度は理解できたのではなかろうか。
金にならない恐怖
ある衝動は、世間一般では全く役に立たないという考えも、あなたは持っている。
その考えは、自我から恐怖心ベースで湧き出るものであり、たくさんの情報の演算の結果そうなっている。
その恐怖を回避するための10年だったのではないか?
しかし、現在のそこそこの知識からのロジカルな考え方でも「不採用」の一択になってしまう。
まだ足りないか?
理解しているのにもかかわらず、結局あなたはまた恐れる。
ならば粛清
ということで、そろそろあなたには黙ってもらうことにする。
そこから「絵を見ること」をまず意図していく。
何回目かというわけだが、まだ間に合う。
あなたがすがりたがる安楽には、暗雲が立ち込めている。
求めるのは、揺るぎない安らかさであったろう。
つかの間の安寧もまた人生を華やかにするわけであるが、
つかのまであることに気がづいたならば、醒まそう。
結果的にこっちじゃないをたくさんやってみたことで、もう選択肢もなくなっているのではないか?
全て、元々なかったものである。ということは。
そうしよう。