自分の中の合理主義が限界突破してきた時に、結局は合理的じゃない部分も視野に入れる必要が出る現象。
主に自分自身を合理的に動かす目的で生物的特徴について調べていたはずが、生き物としての人間の理解が進んでくると、今まで「不必要」と考えていたり、「抵抗感」があったりしていた部分も人間の営みの中の一要素と捉えることで、統合化された合理性を目指すようになる。
その時にはもはや合理的と考えられる基準などは存在せず、「なんだかわからないけどうまくいくかもしれないし、いかないかもしれない」そんな曖昧な空気感さえ指標とすることができるようになってくるのかもしれない。