考察対象の観念
どこか行こうか的な話になったはいいものの、そこから積極的に計画を立案していけないパターンがたまにある。
- 会いに行くのも面倒
- 対象が自分である必要がない場合
- 何をしたいとかない
- うまいこといかない人とはうまいこといくべきでないので正解である
- 行くっていって成立しない人なら、やはり成立すべきじゃなかったと考えるべきである
- ぜひとも感がないような、消去法によるもの
そんなに行きたいと思ってない。それだけの話である。
今までとの違い
今までは面白くなるようなポイントを自ら探し出し、己が力で楽しもうという気概があった。
最近は、疲弊が激しくなってしまったがために、やめているのだと思っている。
文章上でのやり取りに対しての疲弊感
一文で伝わる情報量が増えすぎたゆえに、それに応答する文を思いつかなくなったのだろうか?
- 会話をすすめるステップ数が面倒に感じる
- 返答が何手か先まで読めているのに、あえて話を継続しなくてはならない
- 面白い返しが思いつかない
- 返しやすい返しが思いつかない
否。そういう人とはそもそもコミュニケーションリズムが違うので、社会生活で必須な場合を除いて、無意識的に関わるべきでないという考え方に成っているように感じる。
もそも体力や精神的リソースが限界を迎えている。
現に、腕へのダメージが蓄積しすぎているだろう。
普段なら丁寧に返信していたはずなのだが、最近は腕をかばって、必要最低限の対応のみに成ってきている気がする。
めんどくさい返事にはめんどくさい旨を丁寧に伝えられるようになってしまった。
しかし、そのほうがよいし今後もスッキリしていくことだろう。
そもそも、モチベーションが届かないときはやんなくていい気がするので、まあいいかと思っている。